第十三卷 明石 十五(年ごろ公私御暇なくて)
年ごろ 公私(おほやけわたくし) 御暇(おほむいとま)なくて さしも聞き置きたまはぬ世の古事どもくづし出でて
かかる所をも人をも 見ざらましかば さうざうしくや とまで 興ありと思すことも交る
かうは馴れきこゆれど いと氣高う 心恥づかしき御ありさまに さこそ言ひしか つつましうなりて わが思ふことは 心のままにもえうち出できこえぬを 心もとなう 口惜し と 母君と言ひ合はせて嘆く
正身(さうじみ)は おしなべての人だに めやすきは見えぬ世界に 世には かかる人もおはしけり と見たてまつりしにつけて 身のほど知られて いと遥かにぞ 思ひきこえける
親たちの かく思ひあつかふを聞くにも 似げなきことかな と思ふに ただなるよりは ものあはれなり
四月(しぐゎち)になりぬ 更衣(ころもがへ)の御装束(おほむしゃうぞく) 御帳(みちゃう)の帷子(かたびら)など よしあるさまにし出でつつ よろづに仕うまつりいとなむを
いとほしう すずろなり と思せど 人ざまの あくまで思ひ上がりたるさまの あてなるに 思しゆるして見たまふ
京よりも うちしきりたる御とぶらひども たゆみなく多かり
のどやかなる夕月夜(ゆふづくよ)に 海の上曇りなく見えわたれるも 住み馴れたまひし古里(ふるさと)の池水 思ひまがへられたまふに
言はむかたなく戀しきこと いづかたとなく ゆくへなき心地したまひて ただ目の前に見やらるるは 淡路島なりけり
**********
年ごろ 公私 御暇なくて さしも(さほど)〔子細に〕聞き置きたまはぬ世の古事ども くづし(ぼつぼつと)〔語り〕出でて
かかる所をも 人をも 見ざらましかば さうざうしくや(もの寂しかったのではないか) とまで 興ありと思すことも〔ときには〕交る
〔入道は〕かうは〔君に〕馴れきこゆれど 〔君の〕いと氣高う 心恥づかしき(目映い)御ありさまに
さこそ言ひしか(さんざん威勢のよいことを云ってゐたのに) つつましうなりて(氣が退けて來て) わが思ふことは 心のままにも えうち出できこえぬを 心もとなう 口惜し と 母君(入道の妻、明石の尼君)と言ひ合はせて嘆く
正身(姫本人)は おしなべての人だに(竝の男にさへ) めやすきは見えぬ世界に(さうさうのが見當たらないのに) 世には かかる人もおはしけり と見たてまつりしにつけて 〔我が〕身のほど知られて いと遥かに〔手の届かぬ御人だと〕ぞ 思ひきこえける
親たちの 〔姫を源氏にと〕かく思ひあつかふを聞くにも 似げなき(とんでもない)ことかな と思ふに 〔なまじ〕ただなるよりは(何もなかったのより) ものあはれなり
四月になりぬ 〔入道は〕衣更への御装束 御帳の帷子(垂れ衣)など よしあるさまにし出でつつ(調じ誂へつつ) よろづに仕うまつりいとなむを
〔君は〕いとほしう(氣の毒で) すずろなり(無用のことなのに) と思せど 〔入道の〕人ざまの あくまで思ひ上がり(氣位高くし)たるさまの あてなるに 思しゆるして見たまふ
京(紫)よりも うちしきりたる御とぶらひども たゆみなく多かり
のどやかなる夕月夜に 海の上 曇りなく見えわたれるも 住み馴れたまひし故郷の池水 思ひまがへ(見紛ひ)られたまふに
言はむかたなく戀しきこと いづかたとなく ゆくへなき心地したまひて ただ目の前に見やらるるは 淡路島なりけり
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もう何年も公私に渡り暇がなく さしも聞き漏らした世の出來事どもを 入道 片端から語り出して
君も こんな所で かういふ人物に出合はなかったら さも惜しいことだったとまで 面白く思はれることもあった
かうして入道は君に御近づき申し上げるが やはり君の氣高く 目映いやうな御ありさまに氣壓され
あれほど威勢のよかったのが 氣も退けてしまひ 思ふことも儘には申し上げられない まことに歯痒くて殘念だと 母君と二人で愚癡ってゐる
當の姫本人は 竝の男でさへ ちゃんとしたのがゐないのに 生きてをれば かういふ人もいらしったのだはと 思ふにつけても 我が身のほどが知られ 遥か遠い所におはす御方だと 諦める他もない
親の意向を聞いても とんでもないことだと思ひ なまじひ知った爲に いっそうみじめな氣分になる
四月になった 入道は相變はらず 衣更への御装束やら 御帳の垂れ幕など 上品に調じ誂へつつ 何かと甲斐甲斐しくお世話なさるが
君は氣の毒でもあり 無用のこととも思ふが その人となり あくまで氣高き志を捨てぬ姿を 敢へて憎む氣にもなれない
京(紫)よりも 始終の御見舞ひ 滞りもない
のどかな夕月夜 海の上が曇りなく見渡せる 住み馴れた故郷の家の池水とも見紛ふやうである
何とも言はれずに戀しくなり ぼぉっと氣の遠くなるやうな氣持になられる 目の前に見えるのは ただ淡路島だけであった
2009年11月12日
2009年11月11日
第十三卷 明石 十四(明石の入道行なひ勤めたるさま)
第十三卷 明石 十四(明石の入道行なひ勤めたるさま)
明石の入道 行なひ勤めたるさま いみじう思ひ澄ましたるを
ただこの娘一人を もてわづらひたるけしき いとかたはらいたきまで 時々漏らし愁へきこゆ
御心地にも をかしと聞きおきたまひし人なれば かくおぼえなくて めぐりおはしたるも さるべき契りあるにや と思しながら
なほ かう身を沈めたるほどは 行なひより他のことは思はじ
キの人も ただなるよりは 言ひしに違ふと思さむも 心恥づかしう思さるれば けしきだちたまふことなし
ことに觸れて 心ばせ ありさま なべてならずもありけるかな と ゆかしう思されぬにしもあらず
ここには かしこまりて みづからも をさをさ參らず もの隔たりたる下の屋(しものや)にさぶらふ
さるは 明け暮れ見たてまつらまほしう 飽かず思ひきこえて 思ふ心を叶へむ と 佛(ほとけ)神(かみ)をいよいよ念じたてまつる
年は六十(ろくじふ)ばかりになりたれど いときよげに あらまほしう 行なひさらぼひて 人のほどの あてはかなればにやあらむ
うちひがみ ほれぼれしきことはあれど いにしへのことをも知りて ものきたなからず よしづきたることも交れれば
昔物語などせさせて聞きたまふに すこしつれづれの紛れなり
**********
明石の入道 〔佛道に〕行なひ勤めたるさま いみじう思ひ(悟り)澄ましたるを ただこの娘一人〔の將來ばかり〕を もてわづらひたるけしき
いと かたはらいたき(傍目にも氣の毒なほど)まで 時々〔君に愚癡を〕漏らし愁へきこゆ
〔君の〕御心地にも 〔娘は〕をかしと聞きおきたまひし人なれば かく おぼえなくて(思ひがけず) めぐりおはしたるも さるべき契りあるにや と思しながら
なほ かう身を沈めたるほどは 行なひ(精進)より他のことは思はじ
キの人(紫)も ただなるよりは(かういふ時はなほ) 言ひし(君が約束したこと)に違ふと思さむも 心恥づかしう(氣が退けるやうに)思さるれば 〔娘に〕けしきだち(その氣を見せ)たまふことなし
〔しかし〕ことに觸れて 〔娘の〕心ばせ ありさま なべてならずも(竝々ならずも)ありけるかな と ゆかしう思されぬにしもあらず
ここ(君の御座所)には 〔入道は〕かしこまりて みづからも をさをさ參らず もの隔たりたる下の屋にさぶらふ
さるは(さうではあるが) 明け暮れ〔君を〕見たてまつらまほしう 飽かず思ひきこえて 思ふ心を叶へむ と 佛神を いよいよ念じたてまつる
年は六十ばかりになりたれど いときよげに(こざっぱりとし) あらまほしう(理想的に) 行なひさらぼひて(修行痩せして)
人のほど(人柄)の あてはかなればにやあらむ(上品ぽいからであらうか) うちひがみ(強情で)ほれぼれしき(阿呆らしい)ことはあれど
いにしへのこと(故實)をも知りて ものきたなからず(清々としてをり) よしづきたる(教養深い)ことも交れれば
昔物語などせさせて聞きたまふに 〔君も〕すこしつれづれの紛れなり
**********
明石の入道 佛道に勵む有り樣 いみじう悟り澄まして ただこの娘一人ばかりが もて惱み草のやうだ 君にも愚癡を零すことがあり 傍目にもいぢらしい
君の方も 娘の芳しいのは聞いていらしたので かうして思ひもかけず廻り逢へたのも 何かの縁だらうとは思しながら
それでもやはり かうして運氣のない間は 身を愼んだ方がよいと思はれ
キの紫も かういふ時はなほ 話が違ふはと拗ねるだらうし それもいとほしいから 娘にその氣がありさうな素振りはなさらない
しかし ことに觸れ 娘の心ばせ ありさま なかなかのものであると 引かれる氣がないでもない
入道は 君の御座所には畏まって 自分では滅多に來ない もの隔たった下屋の方に控へてゐる
ただ さうはしながら 明け暮れ君とお逢ひしたく 飽かず憧れて 念願を叶へようと ますます佛神に念じ奉った
年は六十ばかりになってゐるが なかなかこざっぱりとし ほどよい具合に修行痩せし
人柄も上品ぽく見え 少々強情で馬鹿っぽいところはあるが 故實もよく知り 清々としてをり 教養深いところも匂はせるので
昔物語などさせてみると 多少は退屈も凌げるのであった
明石の入道 行なひ勤めたるさま いみじう思ひ澄ましたるを
ただこの娘一人を もてわづらひたるけしき いとかたはらいたきまで 時々漏らし愁へきこゆ
御心地にも をかしと聞きおきたまひし人なれば かくおぼえなくて めぐりおはしたるも さるべき契りあるにや と思しながら
なほ かう身を沈めたるほどは 行なひより他のことは思はじ
キの人も ただなるよりは 言ひしに違ふと思さむも 心恥づかしう思さるれば けしきだちたまふことなし
ことに觸れて 心ばせ ありさま なべてならずもありけるかな と ゆかしう思されぬにしもあらず
ここには かしこまりて みづからも をさをさ參らず もの隔たりたる下の屋(しものや)にさぶらふ
さるは 明け暮れ見たてまつらまほしう 飽かず思ひきこえて 思ふ心を叶へむ と 佛(ほとけ)神(かみ)をいよいよ念じたてまつる
年は六十(ろくじふ)ばかりになりたれど いときよげに あらまほしう 行なひさらぼひて 人のほどの あてはかなればにやあらむ
うちひがみ ほれぼれしきことはあれど いにしへのことをも知りて ものきたなからず よしづきたることも交れれば
昔物語などせさせて聞きたまふに すこしつれづれの紛れなり
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明石の入道 〔佛道に〕行なひ勤めたるさま いみじう思ひ(悟り)澄ましたるを ただこの娘一人〔の將來ばかり〕を もてわづらひたるけしき
いと かたはらいたき(傍目にも氣の毒なほど)まで 時々〔君に愚癡を〕漏らし愁へきこゆ
〔君の〕御心地にも 〔娘は〕をかしと聞きおきたまひし人なれば かく おぼえなくて(思ひがけず) めぐりおはしたるも さるべき契りあるにや と思しながら
なほ かう身を沈めたるほどは 行なひ(精進)より他のことは思はじ
キの人(紫)も ただなるよりは(かういふ時はなほ) 言ひし(君が約束したこと)に違ふと思さむも 心恥づかしう(氣が退けるやうに)思さるれば 〔娘に〕けしきだち(その氣を見せ)たまふことなし
〔しかし〕ことに觸れて 〔娘の〕心ばせ ありさま なべてならずも(竝々ならずも)ありけるかな と ゆかしう思されぬにしもあらず
ここ(君の御座所)には 〔入道は〕かしこまりて みづからも をさをさ參らず もの隔たりたる下の屋にさぶらふ
さるは(さうではあるが) 明け暮れ〔君を〕見たてまつらまほしう 飽かず思ひきこえて 思ふ心を叶へむ と 佛神を いよいよ念じたてまつる
年は六十ばかりになりたれど いときよげに(こざっぱりとし) あらまほしう(理想的に) 行なひさらぼひて(修行痩せして)
人のほど(人柄)の あてはかなればにやあらむ(上品ぽいからであらうか) うちひがみ(強情で)ほれぼれしき(阿呆らしい)ことはあれど
いにしへのこと(故實)をも知りて ものきたなからず(清々としてをり) よしづきたる(教養深い)ことも交れれば
昔物語などせさせて聞きたまふに 〔君も〕すこしつれづれの紛れなり
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明石の入道 佛道に勵む有り樣 いみじう悟り澄まして ただこの娘一人ばかりが もて惱み草のやうだ 君にも愚癡を零すことがあり 傍目にもいぢらしい
君の方も 娘の芳しいのは聞いていらしたので かうして思ひもかけず廻り逢へたのも 何かの縁だらうとは思しながら
それでもやはり かうして運氣のない間は 身を愼んだ方がよいと思はれ
キの紫も かういふ時はなほ 話が違ふはと拗ねるだらうし それもいとほしいから 娘にその氣がありさうな素振りはなさらない
しかし ことに觸れ 娘の心ばせ ありさま なかなかのものであると 引かれる氣がないでもない
入道は 君の御座所には畏まって 自分では滅多に來ない もの隔たった下屋の方に控へてゐる
ただ さうはしながら 明け暮れ君とお逢ひしたく 飽かず憧れて 念願を叶へようと ますます佛神に念じ奉った
年は六十ばかりになってゐるが なかなかこざっぱりとし ほどよい具合に修行痩せし
人柄も上品ぽく見え 少々強情で馬鹿っぽいところはあるが 故實もよく知り 清々としてをり 教養深いところも匂はせるので
昔物語などさせてみると 多少は退屈も凌げるのであった
2009年11月10日
第十三卷 明石 十三(入道の宮ばかりにはめづらかにてよみがへるさまなど)
第十三卷 明石 十三(入道の宮ばかりにはめづらかにてよみがへるさまなど)
入道の宮ばかりには めづらかにてよみがへるさまなど 聞こえたまふ
二條院のあはれなりしほどの御返りは 書きもやりたまはず うち置きうち置き おしのごひつつ 聞こえたまふ御けしき なほことなり
返す返す いみじき目の限りを盡くし果てつるありさまなれば 今はと世を思ひ離るる心のみまさりはべれど
鏡を見ても
とのたまひし面影の離るる世なきを かくおぼつかなながらや と ここら悲しきさまざまの愁(うれ)はしさは さしおかれて
遥かにも 思ひやるかな 知らざりし 浦よりをちに 浦傳ひして
夢のうちなる心地のみして 覺め果てぬほど いかにひがこと多からむ
と げに そこはかとなく書き亂りたまへるしもぞ いと見まほしき側目(そばめ)なるを いとこよなき御心ざしのほど と 人びと見たてまつる
おのおの 故郷(ふるさと)に心細げなる言傳てすべかめり
を止みなかりし空のけしき 名殘なく澄みわたりて 漁(あさり)する海人ども誇らしげなり
須磨はいと心細く 海人の岩屋もまれなりしを 人しげき厭(いと)ひはしたまひしかど ここはまた さまことにあはれなること多くて よろづに思し慰まる
**********
入道の宮(藤壺)ばかりには めづらかにてよみがへるさま(思ひもよらず命拾ひした有り樣)など聞こえたまふ
二條院の〔紫の〕あはれなりし(返事が届いた)ほどの〔君の〕御返りは 書きもやりたまはず 〔書いては〕うち置き〔書いては〕うち置き 〔涙を〕おしのごひつつ 〔御返事〕聞こえたまふ御けしき なほことなり
返す返す(何度も何度も) いみじき目の限りを盡くし果てつるありさまなれば 今はと 世(俗世)を思ひ離るる心のみまさりはべれど
鏡を見ても 〔分れても 影だにとまる ものならば 鏡を見ても なぐさめてまし〕
とのたまひし(姫の)面影の離るる世(事)なきを かく〔逢へないままに〕おぼつかなながらや(氣掛かりなまま)〔別れることになるのか〕と ここら(これほど多くの)悲しきさまざまの愁はしさは さしおかれて
遥かにも 思ひやるかな 知らざりし 浦よりをちに 浦傳ひして
〔遙かに 貴女を思ふ 知らない浦から さらに遠い浦に移って〕
夢のうちなる心地のみして 〔今も〕覺め果てぬほど〔であるから〕 いかにひがこと〔出鱈目〕 多からむ
と げに そこはかとなく書き亂りたまへるしもぞ いと 見まほしき側目(脇から覗いてみたくなるほど)なるを いとこよなき〔姫に對する〕御心ざしのほど と 人びと見たてまつる
おのおの 故郷に 心細げなる言傳て(便り)すべかめり
を止み(雨の小休止)なかりし空のけしき 名殘なく澄みわたりて 漁する海人ども誇らしげ(大喜び)なり
須磨はいと心細く 海人の岩屋もまれなりしを 人しげき厭ひはしたまひしかど(人氣の多いのには閉口されながら) ここはまた さまことにあはれなること多くて よろづに思し慰まる
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藤壺の入道の宮ばかりには 思ひもよらぬ態にて命拾ひした樣子など 御便り申し上げる
二條院の姫君からの あはれの文への御返事は 君もすらすら書き遣ることがかなはず 一筆して思案 二筆して投げ首と 涙を押し拭ひつつ お書きになる その御樣子は やはり尋常ではない
これでもか これでもかと ひどい目を味はひ盡くしたやうな按配にて もう俗世なんぞ捨てようとの氣持が湧いて來ましたが
鏡を見ても 〔分れても 影だにとまる ものならば 鏡を見ても なぐさめてまし〕
と仰った姫の面影が燒きついて離れない かうして逢へない寂しさのまま 別れることになるのか と思ふと
もう他のごたごたした苦勞や心配などどうでもよく 遙か遠くから 貴女へ思ひが飛ぶのだ 知らない浦から もっと遠い浦へ傳ひ歩きながらも
これが現實とは思へず まだ頭が普通ではないから きっと間違ひだらけなのだと思ふ
と お書きになる どことなく亂れていらっしゃるお姿に 何を書かれたのかと 脇から覗き込んでみたくなる やはり姫に對する思し召しは格別なものだと お側の人々も改めて思ふ
みなも それぞれ 故郷に 心細げな便りを書いたやうだ
片時も止まなかった雨模樣が すっかりと澄み渡って 漁をする海人どもも意氣上った
須磨は實に寂しく 海人の岩屋も稀であったが こちらの明石は 人の多い嫌ひはあったが あはれなる風情が多く 色々と御氣持も慰まった
入道の宮ばかりには めづらかにてよみがへるさまなど 聞こえたまふ
二條院のあはれなりしほどの御返りは 書きもやりたまはず うち置きうち置き おしのごひつつ 聞こえたまふ御けしき なほことなり
返す返す いみじき目の限りを盡くし果てつるありさまなれば 今はと世を思ひ離るる心のみまさりはべれど
鏡を見ても
とのたまひし面影の離るる世なきを かくおぼつかなながらや と ここら悲しきさまざまの愁(うれ)はしさは さしおかれて
遥かにも 思ひやるかな 知らざりし 浦よりをちに 浦傳ひして
夢のうちなる心地のみして 覺め果てぬほど いかにひがこと多からむ
と げに そこはかとなく書き亂りたまへるしもぞ いと見まほしき側目(そばめ)なるを いとこよなき御心ざしのほど と 人びと見たてまつる
おのおの 故郷(ふるさと)に心細げなる言傳てすべかめり
を止みなかりし空のけしき 名殘なく澄みわたりて 漁(あさり)する海人ども誇らしげなり
須磨はいと心細く 海人の岩屋もまれなりしを 人しげき厭(いと)ひはしたまひしかど ここはまた さまことにあはれなること多くて よろづに思し慰まる
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入道の宮(藤壺)ばかりには めづらかにてよみがへるさま(思ひもよらず命拾ひした有り樣)など聞こえたまふ
二條院の〔紫の〕あはれなりし(返事が届いた)ほどの〔君の〕御返りは 書きもやりたまはず 〔書いては〕うち置き〔書いては〕うち置き 〔涙を〕おしのごひつつ 〔御返事〕聞こえたまふ御けしき なほことなり
返す返す(何度も何度も) いみじき目の限りを盡くし果てつるありさまなれば 今はと 世(俗世)を思ひ離るる心のみまさりはべれど
鏡を見ても 〔分れても 影だにとまる ものならば 鏡を見ても なぐさめてまし〕
とのたまひし(姫の)面影の離るる世(事)なきを かく〔逢へないままに〕おぼつかなながらや(氣掛かりなまま)〔別れることになるのか〕と ここら(これほど多くの)悲しきさまざまの愁はしさは さしおかれて
遥かにも 思ひやるかな 知らざりし 浦よりをちに 浦傳ひして
〔遙かに 貴女を思ふ 知らない浦から さらに遠い浦に移って〕
夢のうちなる心地のみして 〔今も〕覺め果てぬほど〔であるから〕 いかにひがこと〔出鱈目〕 多からむ
と げに そこはかとなく書き亂りたまへるしもぞ いと 見まほしき側目(脇から覗いてみたくなるほど)なるを いとこよなき〔姫に對する〕御心ざしのほど と 人びと見たてまつる
おのおの 故郷に 心細げなる言傳て(便り)すべかめり
を止み(雨の小休止)なかりし空のけしき 名殘なく澄みわたりて 漁する海人ども誇らしげ(大喜び)なり
須磨はいと心細く 海人の岩屋もまれなりしを 人しげき厭ひはしたまひしかど(人氣の多いのには閉口されながら) ここはまた さまことにあはれなること多くて よろづに思し慰まる
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藤壺の入道の宮ばかりには 思ひもよらぬ態にて命拾ひした樣子など 御便り申し上げる
二條院の姫君からの あはれの文への御返事は 君もすらすら書き遣ることがかなはず 一筆して思案 二筆して投げ首と 涙を押し拭ひつつ お書きになる その御樣子は やはり尋常ではない
これでもか これでもかと ひどい目を味はひ盡くしたやうな按配にて もう俗世なんぞ捨てようとの氣持が湧いて來ましたが
鏡を見ても 〔分れても 影だにとまる ものならば 鏡を見ても なぐさめてまし〕
と仰った姫の面影が燒きついて離れない かうして逢へない寂しさのまま 別れることになるのか と思ふと
もう他のごたごたした苦勞や心配などどうでもよく 遙か遠くから 貴女へ思ひが飛ぶのだ 知らない浦から もっと遠い浦へ傳ひ歩きながらも
これが現實とは思へず まだ頭が普通ではないから きっと間違ひだらけなのだと思ふ
と お書きになる どことなく亂れていらっしゃるお姿に 何を書かれたのかと 脇から覗き込んでみたくなる やはり姫に對する思し召しは格別なものだと お側の人々も改めて思ふ
みなも それぞれ 故郷に 心細げな便りを書いたやうだ
片時も止まなかった雨模樣が すっかりと澄み渡って 漁をする海人どもも意氣上った
須磨は實に寂しく 海人の岩屋も稀であったが こちらの明石は 人の多い嫌ひはあったが あはれなる風情が多く 色々と御氣持も慰まった

