2009年07月11日

第十卷 賢木 二(もとの殿にはあからさまに渡り)

   第十卷 賢木 二(もとの殿にはあからさまに渡り)

 もとの殿には あからさまに渡りたまふ折々あれど いたう忍びたまへば 大將殿 え知りたまはず

 たはやすく御心にまかせて 參うでたまふべき御すみかに はたあらねば おぼつかなくて月日も隔たりぬるに

 院の上 おどろおどろしき御惱みにはあらで 例ならず 時々惱ませたまへば いとど御心の暇なけれど

 つらき者に思ひ果てたまひなむも いとほしく 人聞き情けなくや と思し起して 野の宮に參うでたまふ

 九月七日(ながつきなぬか〔のひ〕)ばかりなれば むげに今日明日 と思すに

 女方も心あわたたしけれど 立ちながら と たびたび御消息ありければ いでや とは思しわづらひながら

 いとあまり埋もれいたきを 物越ばかりの對面は と 人知れず待ちきこえたまひけり

 遥けき野邊を分け入りたまふより いとものあはれなり 秋の花 みな衰へつつ 浅茅が原も枯れ枯れなる蟲の音(ね)に 松風すごく吹きあはせて そのこととも聞き分かれぬほどに 物の音(ね)ども絶え絶え聞こえたる いと艶(えん)なり

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 御息所は もともとの御邸である六條京極には たまにお渡りになることもあるが 人目につかぬやうになさるので 大將殿はお氣附きにならない

 とはいへ 神域である野宮には さう氣ままにお參りになる譯にも行かず 氣にはされながらも 月日だけがどんどんと經った

 そのうち 桐壺院が さしも重いものではないが 以前とは變はり 時々患ふやうになられた

 君も心の安まるときが無いのだが それでも 御息所が恨みを殘したまま下向されるのは心外でもあり また人から見れば 嘗て睦み合った人を踏んだり蹴ったりの目に合はせたやうに思はれようし さうなれば 彼女の自尊心は目茶苦茶にされてしまふ

 さう思ふと 居ても立ってもをられず 野の宮へお參りになった

 もう九月の七日にはなり 今日明日にも下向される頃合ひであった 君は心急くが 

 御息所の方も何かと氣忙しく 君からはせめて當座の對面でもとの御便りがあり 

 いまさら逢っても仕方ない とは思ふものの 餘り逃げ隱れするのもどうか 物越での對面なら別段構ひますまいと お心には秘めて 君をお待ち申し上げた

 君は 遥々と廣い野邊を分け入るにつれ 切ないものが胸に溢れて來た 秋の花はみんな萎れてゐるし 浅茅が原も枯れ草ばかり

 蟲の音に 松風がひゅうひゅう吹き合はせ 何やら遠くから音曲が それも絶え絶えに 何とも實に神妙に聞えて來る

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「女方も心あわたたしけれど 立ちながら と たびたび御消息ありければ いでや とは思しわづらひながら」

 この「いでや」など、實際の發音を聞かないと、意味が通じない言葉だらう。文字で讀む場合は、前後から想像する他はない。現代語の「いやよ」等と同じで、誤解すると野暮なことになる。

 ここでは、「(對面など)ごめんね」の意。しかし事前に手紙での申込みもあり、わざわざ野原まで出向いた君を追ひ返す譯にも行かぬ、といふ苦渋の配慮であらう。

「いと艶なり」 

 この「艷」も、よく分らない言葉だが、要するに、「遥けき野邊を分け入りたまふより いとものあはれなり 秋の花 みな衰へつつ 浅茅が原も枯れ枯れなる蟲の音に 松風すごく吹きあはせて そのこととも聞き分かれぬほどに 物の音ども絶え絶え聞こえたる」のが、作者の感じる「艷」といふものであるか。漢字の「艷」、健康な女の色氣とは隨分と違ふやうである。



posted by ゆふづつ at 00:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする