第十三卷 明石 四(帝王の深き宮に養はれたまひて)
帝王(ていわう)の深き宮に養はれたまひて いろいろの樂しみにおごりたまひしかど 深き御慈しみ(おほむうつくしみ) 大八洲(おほやしま)にあまねく
沈める輩をこそ 多く浮かべたまひしか 今 何の報いにか ここら 樣なる波風には溺(おぼ)ほれたまはむ
天地(あめつち) ことわりたまへ 罪なくて罪に當たり 官位(つかさくらゐ)を取られ 家を離れ 境を去りて 明け暮れ安き空なく 嘆きたまふに かく悲しき目をさへ見 命盡きなむとするは 前(さき)の世の報いか この世の犯(をか)しか
神 佛 明らかにましまさば この愁へ やすめたまへ
と 御社(みやしろ)の方(かた)に向きて さまざまの願を立てたまふ また 海の中の龍王 よろづの神たちに願を立てさせたまふに
いよいよ鳴りとどろきて おはしますに續きたる廊(らう)に落ちかかりぬ 炎(ほのほ)燃え上がりて 廊は燒けぬ
心魂(こころたましひ)なくて ある限り惑ふ 後(うしろ)の方なる大炊殿(おほひどの)とおぼしき屋に移したてまつりて
上下となく立ち込みて いとらうがはしく泣きとよむ聲 雷(いかづち)にも劣らず 空は墨をすりたるやうにて 日も暮れにけり
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〔供人〕
〔君は〕帝王の深き宮に養はれたまひて いろいろの樂しみにおごり(贅を盡くし)たまひしかど 〔君の〕深き御慈しみ 大八洲にあまねく
〔不幸に〕沈める輩をこそ 多く浮かべ(救ひ)たまひしか 今 何の報いにか ここら(こんなにひどい)樣(無體=無茶)なる波風には溺ほれたまはむ
天地 ことわり(是非を辨別し)たまへ 罪なくて罪に當たり 官位を取られ 家を離れ 境を去りて 明け暮れ安き空なく 嘆きたまふに
かく悲しき目をさへ見 命盡きなむとするは 前の世の報いか この世の犯しか 神 佛 明らかにましまさば この愁へ やすめ(靜め)たまへ
と 御社の方に向きて さまざまの願を立てたまふ また 海の中の龍王 よろづの神たちに願を立てさせたまふに
いよいよ鳴りとどろきて おはします〔御座所に〕に續きたる廊に落ちかかりぬ 炎燃え上がりて 廊は燒けぬ
心魂なくて ある限り惑ふ 後の方なる大炊殿とおぼしき屋に〔君を〕移したてまつりて
上下となく立ち込みて いとらう(亂)がはしく 泣きとよむ聲 雷にも劣らず 空は墨をすりたるやうにて 日も暮れにけり
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供の者は、
「君は 帝王の深窗にお育ちに成り いろいろの樂しみにも贅を盡くされましたが その深い御慈悲は日本中に廣がりまして
不幸に身を沈めた者どもをこそ たくさんお助けになった それが今 どういふ報いにより かういふ非道い波風に弄ばれなけれならないのか
天地も事の理非をよく正し給へ 罪なくて罪に當たり 官位を取られ 家を離れ ふるさとを去り 明け暮れ不安なまま お嘆きになられる
かく悲しい目に遭ひ 命も盡きようとするのは どういふ譯によるのか 何の罪によるのか 神佛も明らかに坐しまさば この愁へを どうかお靜め下さい
と 御社の方に向き さまざまの願を立て また 君も 海の中の龍王 よろづの神たちに願を立てさせたまふに
雷はますます鳴り轟き 御座所に續く廊に落ちかかった 炎が燃え上がり 廊は燒けてしまふ
みな仰天し 爲す術も無い 寢殿の後方にある大炊殿めいた建物に君をお移し申し上げ
上下みなごった返し 大騷動になって 泣き叫ぶ聲 雷にも負けてゐない 空は墨をすったやうに暗く そのまま日が暮れた

