2009年11月03日

第十三卷 明石 六(この風今しばし止まざらましかば)

   第十三卷 明石 六(この風今しばし止まざらましかば)

 この風 今しばし止まざらましかば 潮(しほ)上(のぼ)りて 殘る所なからまし 神の助けおろかならざりけり

 と言ふを聞きたまふも いと心細しといへばおろかなり

 海にます 神の助けに かからずは 潮のやほあひに さすらへなまし

 ひねもすに いりもみつる雷(かみ)の騷ぎに さこそいへ いたう困(こう〔kon〕)じたまひにければ 心にもあらず うちまどろみたまふ

 かたじけなき御座所(おましどころ)なれば ただ寄りゐたまへるに 故院 ただおはしまししさまながら 立ちたまひて

 など かくあやしき所にものするぞ

 とて 御手(みて)を取りて引き立てたまふ 住吉の神の導きたまふままに はや舟出して この浦を去りね

 とのたまはす いとうれしくて

 かしこき御影(みかげ)に別れたてまつりにしこなた さまざま悲しきことのみ多くはべれば 今はこの渚に身をや捨てはべりなまし

 と聞こえたまへば

 いとあるまじきこと これは ただいささかなる物の報いなり 我は位に在りし時 あやまつことなかりしかど おのづから犯しありければ その罪を終ふるほど 暇(ひま)なくて この世を顧みざりつれど

 いみじき愁へに沈むを見るに 堪へがたくて 海に入り 渚に上(のぼ)り いたく困じにたれど かかるついでに 内裏に奏すべきことのあるによりなむ 急ぎ上りぬる

 とて 立ち去りたまひぬ

**********

〔海人〕

 この風 今しばし止まざらましかば(止まなかったら) 潮上りて(高潮が來て) 〔人の〕殘る所 なからまし(なかっただらう) 神の助け おろか(竝大抵)ならざりけり

 と言ふを聞きたまふも いと心細しといへばおろかなり(心細いどころではない)

〔君〕

 海にます 神の助けに かからずは 潮のやほあひ(八百會)に さすらへなまし

〔海にいます神の助けに據らなければ 多くの潮の寄せ集まった海に漂ってゐたことだらう 何といふ幸運であらうか〕

 ひねもすに(終日) いりもみ(熬り揉み=激しく襲ひ)つる雷の騷ぎに さこそいへ(さうは言っても) いたう困じたまひにければ 心にもあらず うちまどろみ(微睡み)たまふ

 かたじけなき(慘めな)御座所なれば ただ〔物に〕寄り〔かかり〕ゐたまへるに 故院(故桐壺院) ただおはしまししさまながら(生前の御姿のままに) 立ちたまひて

 など(why) かくあやしき所にものする(ゐる)ぞ 

 とて 御手を取りて 引き立てたまふ

 住吉の神の導きたまふままに はや舟出して この浦を去りね(出なさい)

 とのたまはす いとうれしくて

〔君〕

 かしこき〔故院の〕御影に別れたてまつりにしこなた(以降) さまざま悲しきことのみ多くはべれば 今はこの渚に身をや捨てはべりなまし(捨ててしまひたい)

 と聞こえたまへば

〔故院〕

 いとあるまじきこと これは ただいささか(聊か)なる物(事)の報いなり

 我は位に在りし時 あやまつことなかりしかど おのづから(無意識で)犯しありければ 〔あの世で〕その罪を〔償ひ〕終ふるほど(間は) 暇なくて この世を顧みざりつれど

〔君が〕いみじき愁へに沈むを見るに 堪へがたくて 海に入り 渚に上り いたく困じ(困憊し)にたれど かかるついで(機會に)に 内裏に奏すべきことのあるによりなむ 急ぎ〔京に〕上りぬる(上らう)

 とて 立ち去りたまひぬ

**********

 海人が 「風がもう少し止まなかったら 潮が上って 一人殘らずさらはれただらう 神樣のお助けが竝大抵ぢゃなかった」と言ふのを聞いても もう膽を冷やすどころの騷ぎではない 海の神樣のお助けがなければ 潮の八百會に流されてゐただらう と思はれた

 一日中大暴れした雷騷動で さしも氣張った君もさすがに疲れ果て うっかりと微睡んでしまはれる

 ひどく粗末な御座所だから 物に寄りかかっていらっしゃると 故院が 御生前そのままの御姿で立ち現れ給ひ

「なぜ こんな妙な場所にゐるのだ」

 と 手を取り 引き立てて下さる

「住吉の神樣の教への通りに はやく舟を出して この浦を離れよ」

 と仰る 君は嬉しくなり

「畏き故院の御姿にお別れしてからこなた さまざま悲しきことのみ多くございましたので もうこの渚に身を捨ててしまひたい」

 と申し上げると

「あるまじきことだ 今はただ聊かの過ちの報いに過ぎない 私が帝位に在ったときは 別段の過ちはなかったが 知らず知らずに犯したことがあり あの世でその罪を償ひ終るまでは 暇もなく この世を顧みずに來たが

 君が大變な惱みに沈んでゐるのを見て 堪へがたくなり 海に入り 渚に上り ひどく困憊したことではあるが この機會に内裏に申し上げることがあるから 急ぎ京に上らうと思ふ」

 と仰り 立ち去られた


posted by ゆふづつ at 00:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする